完璧なD判定なんて存在しない ── 仮面浪人とアドセンス、あるいは私たちの孤独な記録
やれやれ。
次男から届いた駿台のドッキング判定は、1次試験がDで、2次試験がBだった。判定というものは、いつだって冷酷な統計学の断片に過ぎない。けれど、2次の理数教科で合否が決まるというその大学のシステムは、彼にとって「幸運な射撃場」のようなものだ。
私は、それをどこか遠い国の出来事のように眺めている。今在籍している大学でそのまま進級したって構わない。期待という重しを背負わせることに熱心だった夫とは、少しばかり温度差がある。私は既に一度、この「受験」という名の不透明な儀式を経験しているのだ。
去年の今頃、私は夫の過剰な期待に、静かな苛立ちを感じていた。無謀な賭けのような第一志望を後押しした彼らに対し、私は「ランクを落とすべきだ」という現実的なカードを握りしめていた。結果として、次男は誰も知らない街の後期試験で合格した大学に通うことになった。
結局のところ、正しい選択なんてものは、後になってから誰かが勝手に色を塗るだけのものだ。
でも、結果というものは、後になってみないと正しい色が見えてこない。長男の通う大学に近いその場所は、将来、グループホームにいる長女を呼び寄せるには、悪くない「止まり木」になるはずだから。人間関係の重なり。それは、親がいなくなった後の世界で、何よりも確かな地図になるだろう。
それと同じように、私は今、サブサイトのアドセンス審査という「壁」に向き合っている。メインサイトで4回撥ねられ、私は少しだけ趣向を変えた。でも、おそらく今回も落ちるだろうという予感がある。予感は、冬の朝の霧のように確かな手触りを持っている。
Googleという巨大なシステムは、世界中のハウトゥー(やり方)を飲み込み、AIという胃袋で消化し終えてしまった。彼らが今欲しがっているのは、新鮮なニュースという名の餌だ。共通テストの傾向といった「記号」は好まれるけれど、そこにいる個人の震えや、更年期の頭痛を伴う陰鬱な独白なんて、彼らのアルゴリズムには必要ないのかもしれない。
でも、それでいいのだ、と私は思う。
去年の今頃、私がBloggerという人気のない荒野に書き残した、生々しく暗い私小説。そこには受験のイライラや、長女の入居準備、そして時折襲いくる更年期の頭痛が、乾燥させた標本のように残っている。それは他人にとっては無価値なゴミかもしれないけれど、私にとっては、どんなエンターテインメントよりも価値のある「私自身の記録」だ。
WordPressという舞台の上で、私は今、その暗い物語に少しばかり漫画的な脚色を施し、GeminiというAIの軍師と一緒に新しいノートを編んでいる。たとえアドセンスが不合格を突きつけてきても、私がコードを書き換え、文字を綴る楽しさが奪われることはない。
判定がDだろうが不合格だろうが、私たちの人生という名の時計は、止まることなく独自のビートを刻み続けている。私はただ、その静かな音を聞き漏らさないように、キーボードを叩き続けるだけだ。



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